ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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中日ファンのための読書感想文②

 「本、読んでますか?」

 若者の活字離れが叫ばれて早幾年。町からは書店が消え、電子書籍とやらも今ひとつ定着しているようには思えない。今や一部好事家の嗜みに成り下がった読書だが、かつては映画と並ぶ最高のエンターテイメントだったのだ。楽しいだけでなく、文化的な香りも漂う知的な娯楽。未曾有の事態に見舞われた今だからこそ、専門家気取りの素人ツイッタラーの戯言や扇動などに気をもまず、持て余した時間を使って良質な本を読もうではないか。

 

 

2冊め「『野球』の誕生」

 

 前回が入手困難な絶版書籍だったので、今回は3年前に出た比較的新しい本を紹介しよう。

 筆者はドラフト研究の第一人者で知られる「小関先生」こと小関順二氏。ライター活動としては「問題だらけの12球団」シリーズが代表的だが、実は小関氏が昭和以前の古い野球にも造詣が深いことはあまり知られていないのではないか。

 本書では「野球史を知ることは、野球をもっと面白くすることにつながる」と銘打ち、正岡子規に所縁のある上野の球場や、戦前の一時期だけ使用された洲崎球場など伝説の舞台に関するエピソードを綴りながら、その土地が現在どうなっているかを小関氏自身が訪ね歩くという史跡ガイドブックのような構成になっている。

 全13章のうち、ドラゴンズにまつわる人物が取り上げられたのは1箇所のみ。現在、東京ドームと温浴施設ラクーアのちょうど間にある鎮魂碑--といえばもうお分かりだろう。戦前、実働3年(投手としては2年)ながら球団3人目となるシーズン20勝を挙げた若き好投手・石丸進一である。

 同じく名古屋軍の選手だった兄・藤吉の応召に伴って補充要員として入団。内野手として出場した初年度は目立った成績を残せていないが、投手に転向した2年目に17勝を挙げると、翌1943年は30先発311.1イニングと投げまくり、戦前最後のノーヒットノーランを含む20勝を収めた。この時まだ21歳。伸び盛りの青年がどれほどの投手に大成するかと楽しみにしたのも束の間、戦局の悪化により応召。45年に自ら神風特攻隊に志願し、沖縄方面の米機動部隊を目指して出撃したきり還らぬ人となった。

 この辺りのエピソードについては本書はもちろんのこと、石丸の従兄弟である牛島秀彦氏の著書「消えた春」や、「文春野球コラム」で大山くまお氏が綴った以下のコラムに詳しく記述されているので、そちらを参考にして頂きたい。

 

bunshun.jp

 

 ところで20勝を挙げたのは石丸が3人目と先述したが、1,2人目が誰かという問いに答えられれば相当博識なファンだ。正解は村松幸雄と西沢道夫。共に1940年に300イニング近く投げて成し遂げた偉業だった。

 戦後も活躍し、背番号「15」が永久欠番にもなった西沢に比べ、村松の名は聞いたこともないという方も少なくないだろう。20勝を収めた翌年も12勝を挙げるなど球団史上最初のエースとして活躍した村松だったが、やはりこの年限りで応召され、44年にグアムで戦死した。ドラゴンズは球団創設の間もない時期に、エース2人を戦火に失ってしまったことになる。つくづく無念でならない。

 さて、いよいよ45年以来となるシーズン中止も現実味を帯びてきた。戦争ではないが、平時とも言えない現状。再び野球の灯火が戻ってきたその時には、鎮魂の碑を訪ね、当たり前の日常の尊さを噛みしめてみるのも悪くないだろう。

 

「『野球』の誕生:球場・球跡でたどる日本野球の歴史」(草思社)