ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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悪夢は続くよ、どこまでも

●0-3(60勝66敗2分)

 

鬼門マツダでまた負けた。

同球場7連敗で迎えたこの日、試合前にはベンチ脇に盛り塩が置かれるなど、なんとしても苦手を打ち破りたいとの思いで臨んだ8度目の挑戦だったが、6連勝中の勢いも虚しく、またしても鬼門突破とはなからなかった。

追い風はむしろドラゴンズに吹いていた。難敵・大瀬良大地は8月29日の巨人戦で10失点を喫するなど序盤の無双っぷりが嘘のように調子を崩しており、そこにきて平田良介が今日から一軍復帰。

さらに前回のマツダでの対戦で苦しめられたバティスタが「身に覚えのない排卵誘発剤が体内から検出される」というコナン君や金田一少年が寄ってたかって推理しても解決不可能な難事件に巻き込まれて離脱したのに加え、さすがに今日あたり勝つだろうという確率論的な楽観も相まって余裕をかましていたのは確かである。

 

今年は打てずに苦しむ

 

だが、ふたつやみっつのポジティブ要素が重なったくらいではどうにもならないほど、マツダとの相性の悪さが生半可ではないことをつくづく思い知らされた。

プロ初黒星を喫した先発・梅津晃大は2本塁打を浴びたことについて「もう少し丁寧に投げられるように頑張ります」と反省の弁を述べたようだが、今日に関しては梅津を責める者は誰もいないだろう。

問題は打線だ。例年、マツダでは投手陣が打ち込まれて負けるパターンが多いのだが、今年は8試合で合計12得点しか取れておらず、特に大瀬良には3試合26イニング1得点と湿りっぱなしでどうにもならない。

4回には無死一塁からの福田永将の痛烈な打球が安部友裕、菊池涼介による華麗な連携プレーに阻まれ、また7回、8回はいずれもダブルプレーでチャンスを潰すなど、相性の悪さを意識せざるを得ないような歯痒い場面が続いた。

 

歴史をなめるな!1976年の悪夢

 

マツダでの対戦はまだ4試合残っている。いくらなんでも全敗することはないだろうと高を括りたくもなるが、侮るなかれ。

長いドラゴンズの歴史を紐解けば、8連敗どころではない驚愕の同一球場連敗の記録が残っているのだ。

“昭和50年代の後楽園球場”。これだけ聞いて、オールドファンの方ならピンと来るはずだ。そして同時に頭痛に襲われるかもしれない。

1976年、日本初の人工芝グラウンドに生まれ変わった後楽園での悪夢は、開幕からちょうど一ヶ月が過ぎた5月4日から始まった。松本幸行、星野仙一、稲葉光雄で3タテを食らったのを皮切りに、与那嶺ドラゴンズは全くこの球場で勝てなくなってしまう。

6月27日は3回までに6点リードしながら徐々に追い上げられて結局引き分けに終わり、また9月18日は1点リードで迎えた9回裏に守護神・鈴木孝政が打ち込まれて逆転サヨナラ負け。

結局この年、同球場で一度も勝つことなく12敗1分という惨憺たる結果を残してシーズンを終えたのだった。

だが悪夢は年を跨いでも終わらなかった。1977年、開幕カードでいきなり2連敗を喫すると“後楽園病”は前半戦を通してドラゴンズを苦しめ、ようやく8月9日に大島康徳の3打席連発で勝つまで、延々と19連敗も続いたのである。

当時、新聞社の代理戦争とまで言われた読売に対してこの戦績では上層部が許すわけもなく、ウォーリー与那嶺監督はこの年限りで退任。しかし中利夫監督があとを継いだ翌1978年も同球場で4勝9敗とやはり苦手は克服できず、昭和50年代の後楽園の記憶は悪夢としてファンの脳裏に刻まれたのであった。

 

先人の苦しみを思えば8連敗ごときでピーピー泣くにはまだ早いのはよく分かった。でも、そろそろ勝てよ

 

なにしろ3戦目は阿知羅だ。明日の小笠原が命運を握るのは間違いない