ちうにちを考える

中日ドラゴンズ歴史研究家が中日の過去、現在、そして未来について持論を発表するブログです

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大人になった夏の少年

◯3-2(43勝52敗)

 

初めて岡田俊哉という投手を意識したのは今から10年前の夏、第91回夏の甲子園の1回戦、智弁和歌山vs滋賀学園での完封勝利だったと記憶している。とは言っても球のキレだとか変化球の精度といった、いわゆる投球に関することはほとんど覚えておらず、それよりも何よりも私が強く惹かれたのはマウンド上での凛々しい面構えと、ピンチを切り抜けたときに見せる“あどけなさ”と“やんちゃさ”が同居した弾けるような笑顔とのギャップであった。

こんがり日に焼けた色黒の頰、全国レベルの高校球児としてはめずらしいほどの細身、そしてアナログ時代のテレビ越しにもはっきり分かるほどの大きな瞳ーーまるで漫画の中から飛び出してきたような端正なルックスを持つ岡田を見て、この投手がプロ入りしたら絶対に人気者になるだろうと確信した。

当時のドラゴンズといえば浅尾拓也が女性人気を独り占めしており、もし岡田が入れば左右のイケメンコンビで大々的に売り出せるぞ、などと勝手に皮算用までしていただけに、本当にドラフトで岡田が入団してきたのには驚いた。しかも外れ1位という高評価でだ。

 

最初に1位指名したのは菊池雄星だったよね

 

岡田とは目の大きさが10倍くらい違うよな

 

茨のスターロード

 

アメリカへ婚活に出かけた川上憲伸の背番号「11」をわずか1年のブランクで譲り受けるなど将来のエース候補と期待された岡田だったが、用意された道程は思いがけず険しいものだった。

ルーキーイヤーは一軍出場はおろか、二軍でもわずか12登板(14回2/3)に留まり、防御率8.59と振るわず。翌年、さらにその翌年も声はかからず、2013年の開幕メンバーに抜擢されるまで丸3年を要した。既に高卒4年目となればドラフト1位の威光も通じなくなる頃だ。

だがそこからリリーバーとしての才を開花させた岡田は、怪我で二軍暮らしが続く浅尾の穴を埋めるかのように2015,2016年には2年連続で50試合登板を達成。侍ジャパンにも招聘されるなどようやくスターへの道を歩き始めたかと思った矢先、2013年頃から症状が出ていたという左手の血行障害が深刻化。最悪のタイミングで手術に踏み切り、岡田のスターロードは一転して茨の道と化した。

 

守護神の風格

 

だが岡田が偉かったのはここで諦めなかったことだ。昨年は病み上がりながら27試合に登板。本格的な再起が期待される今季は昨日までに30試合に投げ、後半戦は岩瀬仁紀の推薦どおりにクローザーを任されている。残念ながら昨夜の逆転サヨナラを含めて既に2度失敗しているが、与田監督は「代えない」と明言した。

その言葉どおり、今日も1点差のしびれる場面で登場し、なんとか逃げ切りに成功。昨夜の雪辱を果たした。それでも高校時代のようにピンチを切り抜けて弾けるような笑顔を作りながらベンチに帰るようなことはもうない。梅野を空振り三振に切り、どや!とばかりに捕手に歩み寄る岡田の姿には、紛れもなく守護神の風格が漂っていた。

あの甲子園からちょうど10年。幼さの残るあどけない少年もすっかり大人になった。